2013年6月22日土曜日

過大評価

周りの方々に過大評価してもらってるなあ、というのが常日頃から感じている私の偽らざる感覚なのですが。
でも、周りの思いを引き受けたり、自分への期待過剰を和らげたりするという意味で、過大評価という感覚はちょっと見直さなきゃいけないと思った。


■上長からの半期の評価

そう思うようになったきっかけは2つあって、1つは人事考課のフィードバックだった。

これまでの考課になく、私自身の成長を認めてもらえて評価の数字にもそれが表れていて、とても感激した。

自分自身でも、確かにこれまでからは変わって自分の成長についての考えを改められた期だと思う。
ただ、自分の成長に対して、仕事に対して、向き合い挑みきれたかというとそうではないと感じている。逃げたり、怠けたりしたこともいっぱいあった。
そういうことを思い出すと、褒められた時に素直に受け止めきれず、“そこまでじゃ・・・”みたいに思ってしまう。

そういう感覚が必ずしも悪いとは思わない。
その感じが私を曲げているわけではないし、むしろ“もっとやろう”というモチベーションにもつながっていると思う。
ただそれは、自分に対する分不相応な期待とも言えるなと思うようになった。
そろそろ自分の力を冷静に見つめて、自己評価が低いことで周りにいらぬ心配をさせる状態から抜けださなきゃいけない頃かもしれない。。


■大事なひとからの真剣な評価
もう1つのきっかけは、私のいいところについて、大事なひとが言葉を尽くして話してくれたことだ。
そこまで言葉にして認めてもらった経験は初めてだった。
うれしくてもったいなくてまだうまく整理できていないけれど、とにかくそこでも“過大評価”感が顔を出しかけて良くないなと思った。

この反省は人事考課の時に思ったこととはまったく違う。
自分ではなく、相手への向き合い方の問題だった。
“私なんて・・・”という態度を崩さないことは、自分が傷つかないように防御線を張ることなのである意味楽なんだけど、相手に対してひどく不誠実だと思う。
本気で言ってくれたことをかわそうとするんじゃなくて、その気持を精一杯引き受けようと思う。
その上で、直した方がいいところがあれば素直に直せばいい。



■人事考課フィードバックでの刺さりポイント
自分への“評価”ではないけど、モチベーションコントロールにおいても感動した。
こんなにフィードバックでモチベートされたのは初めてだったのです。
”切羽詰まってるんだから覚悟を決めましょう”という危機感と、“その危機を乗り越えてみんなで次の世界を見よう。それを引っ張れるのはこのチームだけだよ。”という期待感がいい塩梅で伝わってきて、すごいくすぐり方だと思った。
今期、がんばります。

そういえばサークル時代はめったやたらに危機感だけを強調していて、結構げんなりしたなあと思い出した。
私に対する“次の世界を見る”っていう言葉みたいに、相手に刺さる言葉で伝えるということの大事さを改めて学びましたよ。

2013年6月9日日曜日

I promise I'll be a hero for you...

昨年末に観た「アリス・イン・ワンダーランド」というミュージカル。
好きすぎて、日本語版のCDも英語版のCDも買ってしまった。
音楽は、安心と実績のFrank Wildhorn先生。

両方を聴き比べてみると、ラストの歌詞が随分違った。
日本語版は単にネタばらしで、英語版は一歩踏み込んでいる。
今回はその内容には触れないけれど、そこに入っている、“I promise you'll be a hero for me, and I'll be a hero for you.”という歌詞がよく分からなくてずっと気になっていた。
ヒーローって、お互いになり合うものなのか??とか。自分には馴染みのない概念だった。

最近になって、やっとぼんやり理解できた気がするので整理してみる。


■“ヒーロー”の定義
そもそも理解できなかったのは、歌詞の中の“ヒーロー”と私の考えるヒーロー像にずれがあったからだったと思う。
私の考えるヒーロー像は、“ピンチの時に助けに来てくれるすごいひと”だった。
ピンチから脱するためならどんなことでもしてくれて、いつもなんとかしちゃう感じ。

でもきっとここでいうヒーローというのは、現実にいる周囲のひとともっと地続きの存在だと考えるようになった。
特別な能力もなければ、いつもピンチに気付けるわけでもない、普通のひと。
でも、大事なひとを本気で守ろうとしているひと。
そんな感じで捉えると分かりやすくなった。


あと、先の歌詞を分解してみると、"you'll be a hero for me"の方はまだ分かる、と思っていた。
そして、"I'll be a hero for you"というのがどうにもしっくりこなかった。

でも上記の定義と合わせて考えると、お互いにヒーローになるというのは、単にお互いのことを本気で大事に思うことだと思う。
相手のことを本当に考えているなら、“ヒーローになる”というのは突飛でも傲慢でもなく、当たり前のことなんだろうと思うようになった。


■私がヒーローになるには?
じゃあ私が大事なひとのヒーローになるってどういうことなのか。
それを考えるには、上記からさらに突っ込んでヒーローを定義する必要があった。
結果、大事な相手を本気で守ろうとしているだけではなくて、相手にいい影響を与えられるというのが私の考えるヒーロー像だとした。
それに基づくと、今のところ下記の3点が大事そうだと思っている。

1. ヒーローは人格的に優れている。
相手にいい影響を与えるのなら、基本的な人格がしっかりしていないとどうしようもない。基本です。
※すべての面で自分が一番じゃなきゃいけないわけじゃない。
相手の優れているところにはしっかり敬意を払い、刺激し合う関係がいいと思う。
自分の方が優れていないと安心できないというのは、自分のエゴだと思うことにした。

2. ヒーローは自分の努力をアピールしない。
相手に影響を与えようとするからって、自分ががんばったことをアピールしちゃかっこわるい。
そんなことはあまり口に出さず、それでもにじみ出る人間性に力があるといいな、という自分には無理めなことも書いてみる。
※こういうことをブログに書く時点でどうか。。。ということは気にしません。

・ヒーローは折れない。
悩んだり弱ったりするけど、たいていがんばっている存在でありたいと思う。
弱音は吐くかもしれないけれど。


ということで、昔聞いた歌の歌詞で分からなかったところも、自分の状況が変わったりすると理解がすすむものだなと思った。
本とかも読み返そうかな。



2013年6月5日水曜日

ブログというコミュニケーション

同僚が一日だけ個人ブログを公開してくれた。
その中には、悩みが吐露されている私のブログポストに対するレスポンスもあった。
そんなに真剣に読んでくれてレスまで書いてくれてたなんて、、、胸が詰まる。
そんなレスには反応しなきゃだし、感想のリクエストもあったので、感じたことをまとめておこうと思います。

※このブログは基本的に読み手を意識して書いたことがないので、だいぶひよってはいる・・・。
けど、「迷ったら勇気の要る方を選ぶ」という私の原則に従って書いてみます。
書き始めたら、コミュニケーションについて、みたいな大きめの話になってしまった。。


■ひとは見た目じゃわからない
身近にいる人のブログを読むということを初めて体験してみて、見た目と考えてることとは違うんだなあと改めて思った。当たり前ですが。

軽やかにしていてもしっかり自分に向き合って考えているひともいれば、深刻な顔してる割にあまり考えていないひともいると思う。
どちらにしても、じっくり話をしたいと思えるひとが近くにいても気付かず、イメージだけでコミュニケーションの取り方を決めてしまうことが大半なんだと思う。
ううん、もったいない。

逆に、好きなブロガーさんでも会ってみたら印象が違った。。。ということもありえるんだろう。

自分が話したいひとを見つけて人生をより濃くするには、先入観持たずに一歩踏み込んだコミュニケーションを取るしかないということかなー。

※星新一さんのショートショートで、初対面同士の会話を弾ませるために過去の経験をことこまかに入力したデータベースを会員ネットワーク内でシェアして、共通の話題を見つけ出す機械の話を昔読んだことがある。
過去の経験もそうだし、考え方についても同じことができればおもしろそう、と思った。
共通なだけじゃなくて、おもしろいと思う要素同士をぶつけられたら楽しい。


■「書く」コミュニケーションタイプ
ひとによって得意なコミュニケーションタイプがあると思っていて、タイプが同じというのは大きいなと思った。
タイプとは、
 [理解する]“読む” or “聞く” x [まとめる]“書く” or “話す” x [伝える]“書く” or “話す”
の組み合わせ・配分だと思っている。

私が一番周りとギャップを感じるのは[まとめる]パートで、話しながら、相手との議論を踏まえつつ考えをまとめることがどうにも苦手だ。
私にとって考えをまとめるというのは、時間をとって文章に落とすということ。

単にアウトプットの方法だけれど、そこが合っているというのはかなりコミュニケーションが楽かも、と思った。


■言葉の力を大事にする人は信用できる
例えば同じ“書く”タイプのひとであっても、合う合わないはある。
同僚のブログを読んで、「言葉を大事にするかどうか」というのが私にとってひとつの大きな基準だなと気付いた。
大事にしないひとは興味がない、というわけではなくて、大事にするひとには特に反応してしまうという感じ。

言葉には独特の力がこもると思う。
どんな名前を付けるか、思ったことのうちどこまでは口に出すか、ひとを何て呼ぶか、、、。
そういうことを意識しているひとは、私にとってかなり魅力的なんだと分かった。


■健全な自信
ブログの具体的な内容についてひとつ触れてみる。
“仕事を辞めようかと思った”という投稿があって、結構ずしんときた。
結果として、同僚は逃げずに今も会社に留まってくれている。

だいぶ大変そうだということはうっすら知っていたし、今の堂々たる仕事っぷりはその経験に裏打ちされているということも理解できる。
でも普段はそういうこと忘れがちだなと思ってはっとした。
健全な自信というものは、逃げなかったとかやりきったとかいう自分が認識する“実績”から生じるんだなと、これまた当たり前のことを思った。
まずは自分自身に恥じないような経験を積み上げて、揺るぎない自信を私もつけていきたいと思う。

そういう“逃げなかった”ことを「よかった」とだけで片付けず、今も判断について考え続けていることも新鮮・・・というか尊敬するところ。


ブログ全体に対する所感というのは難しい・・・。
けど、考えていることをある程度の長さの文章に落としてコミュニケーションに使うというのはやっぱりいいなと思う。

一方で、感情がしっかり言葉になってSNS経由でひとに読まれてしまいかねないという今の世は、だいぶおそろしいとも思うです。
ひとに、本音とかタテマエとか仮面とか毒とかあるってことが直接分かってしまうなんて・・・!
私はあんまり見ないように気を付ける派です。