2013年7月21日日曜日

二都物語

二都物語を観に行ってきた。
久しぶりの舞台鑑賞はやっぱりわくわくする!帝国劇場のたたずまいも相変わらず素敵でした。

話の内容も、舞台となる時代さえも知らずに鑑賞したけれど、レ・ミゼラブルとほぼほぼ同じだったので話の筋は飲み込みやすかった。
というより、レ・ミゼラブルと雰囲気も話の構成要素もそっくり。
最初は違いを見つける方が難しかった。


■レ・ミゼラブルとの違い
違いを考えてみたら、同じフランス革命がテーマでも、原作者の立場が全く違うことに気付いた(当たり前。。)。
私の浅い認識では、レ・ミゼラブルの方はフランス人が、二都物語はイギリス人が見たフランス革命で、イギリスから見ると、全てを称賛できるような感じではなかったんだなと思った。
第2幕のはじまりに出てくる革命をテーマにした大道芸は、怪しげな音楽に乗せて下品に見せていて、かなり意地悪な表現だと思う。
逆に、処刑される側の貴族へは、レ・ミゼラブルよりも同情心があって温かみはあった。
フランス革命はヨーロッパ中で称賛されたものかと勘違いしていたので意外だったけど、よく考えれば距離がある分見解が違うのも当たり前だと気付いた。

とはいえ、物語として盛り上がる要素”の認識は英仏で同じだったみたいでおもしろい。
見返りを求めない愛、深くてやりきれない恨み、酒場のノリ、こどもの犠牲、ピュアで育ちのよい女性、などなど。
よく分からないけど、キリスト教的な世界観は共通していたのかも、と思った。


■役者さんの実力
お芝居の種類としてもレ・ミゼラブルと同じで、群像劇だった。
最後の方なんて特に展開が早くて、あのひとのために泣いた30秒後にはこのひとのために泣いて、といそがしい。
そんなに詰め込んでも感情移入できるのは、やっぱり役者さんが素晴らしいからだと思った。

どの方も素晴らしかったけれど、特に感激したのはマダム・ドファルジュ役の濱田めぐみさんと、テヴレモンド伯爵役の岡幸二郎さんだった。
濱田めぐみさんは、彼女にしかうまくできない役がいっぱいあるなあと思わせるような、圧倒的な実力だと思う。
彼女が歌うといつもぞくぞくします。同じ時代に生きていることに感謝したい。
そして岡さんは“別世界の住民”感がすごかった。
別の星で育てられてある日地球にぽんと置かれたような、民衆とは絶対に相容れない感じ。
しゃべらなくても、雰囲気でもう和解の望みがないことがはっきり分かる、やりきった演技だと思った。
レ・ミゼラブルでは革命側のカリスマ、アンジョルラスがあんなに素敵だったのに・・・!

とにかく、ほとんどどのキャストの方もしっかりキャラクターが深いところからできあがっていて、すんなり感情移入することができて素晴らしかった。


■私の好きな人格
今回の主役、シドニーの役がとても好きで、自分が尊敬するひとのタイプを再確認してしまった。
シドニーが見返りを求めずに愛を捧げ通すところがクライマックスなのだけれど、シドニーがピュアで汚いことをあまり知らないからこそ愛を信じられるキャラクターだったら、私はあんまり感動できなかったと思う。

彼は酒に溺れて最低の仕事をしてきたり、ずるくて汚いこともたくさんやってきたりして、世の中を裏側までしっかり知っているひとだった。
その上でルーシーのピュアさを本気で信じ、愛せるというところが尊いし美しいと思う。
そういう奥行きのあるひとに私は本当に憧れてしまって、そんなひとの愛や腹の据わり方に感動する。
私自身は世間知らずで、とてもそんな風になれそうにないけれど、せめて何も分かってないなりに一生懸命生きようと思いました。・・・って漠然としすぎて何も言えてない感じですが。



次はモンテ・クリスト伯を観に行く予定です。


2013年6月22日土曜日

過大評価

周りの方々に過大評価してもらってるなあ、というのが常日頃から感じている私の偽らざる感覚なのですが。
でも、周りの思いを引き受けたり、自分への期待過剰を和らげたりするという意味で、過大評価という感覚はちょっと見直さなきゃいけないと思った。


■上長からの半期の評価

そう思うようになったきっかけは2つあって、1つは人事考課のフィードバックだった。

これまでの考課になく、私自身の成長を認めてもらえて評価の数字にもそれが表れていて、とても感激した。

自分自身でも、確かにこれまでからは変わって自分の成長についての考えを改められた期だと思う。
ただ、自分の成長に対して、仕事に対して、向き合い挑みきれたかというとそうではないと感じている。逃げたり、怠けたりしたこともいっぱいあった。
そういうことを思い出すと、褒められた時に素直に受け止めきれず、“そこまでじゃ・・・”みたいに思ってしまう。

そういう感覚が必ずしも悪いとは思わない。
その感じが私を曲げているわけではないし、むしろ“もっとやろう”というモチベーションにもつながっていると思う。
ただそれは、自分に対する分不相応な期待とも言えるなと思うようになった。
そろそろ自分の力を冷静に見つめて、自己評価が低いことで周りにいらぬ心配をさせる状態から抜けださなきゃいけない頃かもしれない。。


■大事なひとからの真剣な評価
もう1つのきっかけは、私のいいところについて、大事なひとが言葉を尽くして話してくれたことだ。
そこまで言葉にして認めてもらった経験は初めてだった。
うれしくてもったいなくてまだうまく整理できていないけれど、とにかくそこでも“過大評価”感が顔を出しかけて良くないなと思った。

この反省は人事考課の時に思ったこととはまったく違う。
自分ではなく、相手への向き合い方の問題だった。
“私なんて・・・”という態度を崩さないことは、自分が傷つかないように防御線を張ることなのである意味楽なんだけど、相手に対してひどく不誠実だと思う。
本気で言ってくれたことをかわそうとするんじゃなくて、その気持を精一杯引き受けようと思う。
その上で、直した方がいいところがあれば素直に直せばいい。



■人事考課フィードバックでの刺さりポイント
自分への“評価”ではないけど、モチベーションコントロールにおいても感動した。
こんなにフィードバックでモチベートされたのは初めてだったのです。
”切羽詰まってるんだから覚悟を決めましょう”という危機感と、“その危機を乗り越えてみんなで次の世界を見よう。それを引っ張れるのはこのチームだけだよ。”という期待感がいい塩梅で伝わってきて、すごいくすぐり方だと思った。
今期、がんばります。

そういえばサークル時代はめったやたらに危機感だけを強調していて、結構げんなりしたなあと思い出した。
私に対する“次の世界を見る”っていう言葉みたいに、相手に刺さる言葉で伝えるということの大事さを改めて学びましたよ。

2013年6月9日日曜日

I promise I'll be a hero for you...

昨年末に観た「アリス・イン・ワンダーランド」というミュージカル。
好きすぎて、日本語版のCDも英語版のCDも買ってしまった。
音楽は、安心と実績のFrank Wildhorn先生。

両方を聴き比べてみると、ラストの歌詞が随分違った。
日本語版は単にネタばらしで、英語版は一歩踏み込んでいる。
今回はその内容には触れないけれど、そこに入っている、“I promise you'll be a hero for me, and I'll be a hero for you.”という歌詞がよく分からなくてずっと気になっていた。
ヒーローって、お互いになり合うものなのか??とか。自分には馴染みのない概念だった。

最近になって、やっとぼんやり理解できた気がするので整理してみる。


■“ヒーロー”の定義
そもそも理解できなかったのは、歌詞の中の“ヒーロー”と私の考えるヒーロー像にずれがあったからだったと思う。
私の考えるヒーロー像は、“ピンチの時に助けに来てくれるすごいひと”だった。
ピンチから脱するためならどんなことでもしてくれて、いつもなんとかしちゃう感じ。

でもきっとここでいうヒーローというのは、現実にいる周囲のひとともっと地続きの存在だと考えるようになった。
特別な能力もなければ、いつもピンチに気付けるわけでもない、普通のひと。
でも、大事なひとを本気で守ろうとしているひと。
そんな感じで捉えると分かりやすくなった。


あと、先の歌詞を分解してみると、"you'll be a hero for me"の方はまだ分かる、と思っていた。
そして、"I'll be a hero for you"というのがどうにもしっくりこなかった。

でも上記の定義と合わせて考えると、お互いにヒーローになるというのは、単にお互いのことを本気で大事に思うことだと思う。
相手のことを本当に考えているなら、“ヒーローになる”というのは突飛でも傲慢でもなく、当たり前のことなんだろうと思うようになった。


■私がヒーローになるには?
じゃあ私が大事なひとのヒーローになるってどういうことなのか。
それを考えるには、上記からさらに突っ込んでヒーローを定義する必要があった。
結果、大事な相手を本気で守ろうとしているだけではなくて、相手にいい影響を与えられるというのが私の考えるヒーロー像だとした。
それに基づくと、今のところ下記の3点が大事そうだと思っている。

1. ヒーローは人格的に優れている。
相手にいい影響を与えるのなら、基本的な人格がしっかりしていないとどうしようもない。基本です。
※すべての面で自分が一番じゃなきゃいけないわけじゃない。
相手の優れているところにはしっかり敬意を払い、刺激し合う関係がいいと思う。
自分の方が優れていないと安心できないというのは、自分のエゴだと思うことにした。

2. ヒーローは自分の努力をアピールしない。
相手に影響を与えようとするからって、自分ががんばったことをアピールしちゃかっこわるい。
そんなことはあまり口に出さず、それでもにじみ出る人間性に力があるといいな、という自分には無理めなことも書いてみる。
※こういうことをブログに書く時点でどうか。。。ということは気にしません。

・ヒーローは折れない。
悩んだり弱ったりするけど、たいていがんばっている存在でありたいと思う。
弱音は吐くかもしれないけれど。


ということで、昔聞いた歌の歌詞で分からなかったところも、自分の状況が変わったりすると理解がすすむものだなと思った。
本とかも読み返そうかな。



2013年6月5日水曜日

ブログというコミュニケーション

同僚が一日だけ個人ブログを公開してくれた。
その中には、悩みが吐露されている私のブログポストに対するレスポンスもあった。
そんなに真剣に読んでくれてレスまで書いてくれてたなんて、、、胸が詰まる。
そんなレスには反応しなきゃだし、感想のリクエストもあったので、感じたことをまとめておこうと思います。

※このブログは基本的に読み手を意識して書いたことがないので、だいぶひよってはいる・・・。
けど、「迷ったら勇気の要る方を選ぶ」という私の原則に従って書いてみます。
書き始めたら、コミュニケーションについて、みたいな大きめの話になってしまった。。


■ひとは見た目じゃわからない
身近にいる人のブログを読むということを初めて体験してみて、見た目と考えてることとは違うんだなあと改めて思った。当たり前ですが。

軽やかにしていてもしっかり自分に向き合って考えているひともいれば、深刻な顔してる割にあまり考えていないひともいると思う。
どちらにしても、じっくり話をしたいと思えるひとが近くにいても気付かず、イメージだけでコミュニケーションの取り方を決めてしまうことが大半なんだと思う。
ううん、もったいない。

逆に、好きなブロガーさんでも会ってみたら印象が違った。。。ということもありえるんだろう。

自分が話したいひとを見つけて人生をより濃くするには、先入観持たずに一歩踏み込んだコミュニケーションを取るしかないということかなー。

※星新一さんのショートショートで、初対面同士の会話を弾ませるために過去の経験をことこまかに入力したデータベースを会員ネットワーク内でシェアして、共通の話題を見つけ出す機械の話を昔読んだことがある。
過去の経験もそうだし、考え方についても同じことができればおもしろそう、と思った。
共通なだけじゃなくて、おもしろいと思う要素同士をぶつけられたら楽しい。


■「書く」コミュニケーションタイプ
ひとによって得意なコミュニケーションタイプがあると思っていて、タイプが同じというのは大きいなと思った。
タイプとは、
 [理解する]“読む” or “聞く” x [まとめる]“書く” or “話す” x [伝える]“書く” or “話す”
の組み合わせ・配分だと思っている。

私が一番周りとギャップを感じるのは[まとめる]パートで、話しながら、相手との議論を踏まえつつ考えをまとめることがどうにも苦手だ。
私にとって考えをまとめるというのは、時間をとって文章に落とすということ。

単にアウトプットの方法だけれど、そこが合っているというのはかなりコミュニケーションが楽かも、と思った。


■言葉の力を大事にする人は信用できる
例えば同じ“書く”タイプのひとであっても、合う合わないはある。
同僚のブログを読んで、「言葉を大事にするかどうか」というのが私にとってひとつの大きな基準だなと気付いた。
大事にしないひとは興味がない、というわけではなくて、大事にするひとには特に反応してしまうという感じ。

言葉には独特の力がこもると思う。
どんな名前を付けるか、思ったことのうちどこまでは口に出すか、ひとを何て呼ぶか、、、。
そういうことを意識しているひとは、私にとってかなり魅力的なんだと分かった。


■健全な自信
ブログの具体的な内容についてひとつ触れてみる。
“仕事を辞めようかと思った”という投稿があって、結構ずしんときた。
結果として、同僚は逃げずに今も会社に留まってくれている。

だいぶ大変そうだということはうっすら知っていたし、今の堂々たる仕事っぷりはその経験に裏打ちされているということも理解できる。
でも普段はそういうこと忘れがちだなと思ってはっとした。
健全な自信というものは、逃げなかったとかやりきったとかいう自分が認識する“実績”から生じるんだなと、これまた当たり前のことを思った。
まずは自分自身に恥じないような経験を積み上げて、揺るぎない自信を私もつけていきたいと思う。

そういう“逃げなかった”ことを「よかった」とだけで片付けず、今も判断について考え続けていることも新鮮・・・というか尊敬するところ。


ブログ全体に対する所感というのは難しい・・・。
けど、考えていることをある程度の長さの文章に落としてコミュニケーションに使うというのはやっぱりいいなと思う。

一方で、感情がしっかり言葉になってSNS経由でひとに読まれてしまいかねないという今の世は、だいぶおそろしいとも思うです。
ひとに、本音とかタテマエとか仮面とか毒とかあるってことが直接分かってしまうなんて・・・!
私はあんまり見ないように気を付ける派です。

2013年5月11日土曜日

がっこう

学校に通い始めた。
先生に褒められた。
友達ができた。

学校・・・いいな。


でも、終始受け身のくせになにかがんばった感がするのはこわい。
「“インプットを成果につなげる”のではなく”成果のためにインプットする”だな。

2013年5月5日日曜日

親切の重さ

浅草にロシアから来た友達を連れて行った。

その子の写真を撮っていたら、
「あっちを背景にするとスカイツリーが入るよ!」
といきなり声をかけられた。
見ると、いかにも親切そうなにこにこした初老の夫婦。
お言葉に甘えて、スカイツリーをバックに2人の写真を撮っていただいた。

その子はすっかり信用していたけれど、高価な一眼レフカメラが盗られるんじゃないかと思って私はひやひやしていた
警戒しつつ写真に収まっていたけれど、もちろん何事もなく写真撮影は終了。ほっとした。
「写真お撮りしましょうか?」
と聞いてみると、
「私たちはこのへんに住んでるからいいのよ。兄妹なの。」
とのことだった。

こんな親切なひともいるんだなあと思った。
でも、警戒されていやな思いをされることも多いんじゃないかと余計な心配をしてしまう。外国人がこの親切を素直に信用できるとは思えません。
それでも親切にするというのは、親のそんな姿をよく見ていたり、すごく困ったときに親切にしてもらったことがあったりして、染み付いているのかなと思う。
親切にされただけじゃなくて、自分の受けた親切のありがたみをよくよく分かった経験があるかどうかというのは大事そう。


「親切」とはちょっと違うけれど、「道徳的に正しいことを積極的にする」ということもまた、そのありがたみとか大事さを実感できているかどうかで決まるのかなあと思う。
妊婦や高齢者に電車で席をゆずるとか、倒れてしまったホームレスの方を助け起こすとか、目の見えない方を案内するとか。
私の大好きな先輩たちは、こういう振る舞いをとても大事にする。
私は、大事だとは思うけれど、先輩たちのように積極的に実践できていない。
その差は、その行為が持つ意味とか価値とかを十分に理解できているかどうかなのかなと思った。
ちゃんと理解するには、とりあえずたくさんやってみる!がいいと思ったのでそうする。



それにしてもロシア人って自分のポートレート撮るのが好きな人種です。
「太ったから写真を見ると悲しい」とか言いつつ、ちゃんとポーズを取って決まってるところがすごい。
カルチャーショックでした。


初老のいかにも親切そうな紳士に5,000円騙し取られたことがある。。。

2013年4月7日日曜日

先輩の愛

お誕生日祝いと称して、会社の先輩方に飲みに連れてっていただいた。
本当にもったいないほどの愛を受けて、まじでがんばろうと思った。


この先輩方には、大学生の頃からずっとお世話になっている。
私はインターンとして法人向けサービスのマーケティング部門で働き始めて、社員になってからも2年ちょっと同じ部門にいた。
先輩方は、同じ法人向けサービスの営業部にずっといらっしゃる。
私が入った当初は営業部が4人くらいで、マーケティング部門との距離感も比較的近かった。
この3年くらいで、人数が増えたり、営業部内でいくつもグループができたり、部長が立てられて以前よりも独立した部門になったりと、いろいろと変化があった。
私はずっとマーケティング部だったが次第に営業部との関わりが深い業務から外れ、個人向けサービスの方の助っ人として入っていくうちにそちらの部署に異動になった。

だから先輩方とは、距離が遠くなって話をすることもほとんどなくなっていたので、今回声をかけていただいて本当にうれしかった。
また、遠くにいてもわかるほど私が元気なさそうなのかなあと思い、申し訳なくもあった。


飲み始めて話していると、先輩方は本当に変わっていなかった。
いつも通り愛にあふれていて、ぽかぽかしていた。

私は自分の今後についてここ最近考えていたことをそのまま話した。一時は悩んでいたけれど、社長にも相談して今はすっきりしているということを知ってもらおうと思った。
先輩方はそんな話を受け止めてくださった。
しかも口には出さなかった私の甘い考えもお見通しだった。ほんとにかなわない。
もやもやしていたことも改めてハラオチして、やっぱり努力を積み上げるほかないなと思った。


そのあとは、どんなに私のことを好きで大事に思っているか、ひたすら話してくださった。
うれしすぎてなにも言えなかった。
こんなに素晴らしい方々に大事に思ってもらえるなんて、なんだろう。
とにかくこの感激を書き残しておきたい。


彼らに出会ってから、自分の理想の人物像ができた。
私は彼らのように、自分よりもひとのことを大事に考え、周囲に愛を与えられるひとになりたいと思うようになった。
大学まではそんなひとが身近にいなくて、そういうひとがいるのだということすら知らなかった。
今の会社に入って彼らと話したりいっしょに働いているうちに、仲間や後輩に愛情をもって、とにかく態度や行動で示す姿を見せてもらった。
さらには見知らぬひとにまでまっすぐな愛を与えている。それは仲間への愛情とはもちろん種類が違って、困っているひとを決してそのままにしておかないという姿勢がある。
私はその姿が大好きで、そういうひとになりたいと強く思うようになった。

今の私は、自信をもって彼らに向き合える状態じゃないと思う。
怠けたり自分のことばっかり考えたりで、むしろ顔向けできないくらいに思っている。
それでも彼らが私を愛してくれていることが分かって、本当にありがたいやら申し訳ないやらでつらかった。
でもその温かさにすごく救われた。


あとはこの夜のことを忘れずに、自信を持って行動していくこと、まっすぐで周りに愛をあげられるひとになることをひたすら実践したい。
それだけが彼らの愛に応えることになる。
とにかく、逃げずにがんばる。がんばろう。



つらいときにはこの宝みたいな夜のことを思い出そうと思います。
撮ってもらった写真も宝。