2013年2月23日土曜日

映画「レ・ミゼラブル」

ミュージカルとイメージが違うだろうから、観るのを避けていたレ・ミゼラブル映画版。
先輩から強いPUSHを受けて観てきました。

まずびっくりしたのは、かなり構成が舞台に忠実なこと。
もちろんだいぶ印象は違うけれど、歌なんてそのまんまだった。(ので、歌のうまさの違いが際立ってしまった。。)
同じ歌でも、字幕付き英語で聞いて初めてニュアンスが分かったところも多々あって、それだけでも観てよかったと思う。
舞台はもちろん日本語でしか観たことがないし、英語版のサントラは訳がなくてなんとなくでしか聞けてなかった。
 ※starsは、星を警察部隊に例えてたのか・・・狂ってるだろ。とか。

アン・ハサウェイはじめ役者さんたちがすばらしかったし、いい映画だと思った。


逆に映画だからこそ気になったこともあって、それはキリスト教のやだみだ。
登場人物の多くは、心からの愛とか誇りが芯にあって、だから本当に魅力的な人物なんだと思う。
とても尊敬する生き様であり、彼ら自身の基準でやるべきこと、守るべきことを判断して行動しているんだと思う。

なのに、彼らは最期まで神の許しとか祝福とかを気にしている。
・・・立派な人生を送ったんだから、もうそこに縛られなくていいじゃない!と、神への怒りがふつふつと湧いてきてしまいました。
これも英語での“祝福”とかのニュアンスが字幕によってより分かるようになったからだと思う。


PUSHしてくださった先輩と一度“バルジャンのすばらしさ”などについて語ったことがあったので、改めてどうしてあんなに魅力的に感じるのか考え直してみた。
彼は、「バルジャンは法は破るし嘘はつくし滅茶苦茶だけど、でも自分の基準で正しいと思うことについて妥協しないからかっこいい」と言っていた。
確かに、法でがちがちに縛られてしまったジャベールとは違って、自分の信念に忠実で、ときに型破りなところもあるバルジャンは魅力的だと思う。

今回改めてバルジャンを観て、そのすばらしさは周囲への深い愛だと感じた。
あんなにひどい仕打ちを受けておいて他人を愛せるなんて・・・!と思う。
自分の欲や犠牲に構わず、ほとんど見ず知らずのマリウスのことを思えるあの愛の深さは、本当にありがたく尊いと思った。
でもマリウスの手紙を読んだ時のあの親ばか慌てっぷりはしっかり映画にも受け継がれていてほほえましいw

ただ、愛ならなんでもいいんじゃなくて、無垢な愛とかはあんまり貴重じゃないかも。。。と思った。
マリウスとコゼットの愛とか、あんまり感動しない。「他のひとたちの苦労や愛も知らず、この坊ちゃん嬢ちゃんが!!」と思ってしまったなあ。

それに比べたら、たくましく生きてるガブローシュの方がすてきだった。
ガブローシュは愛に生きる感じではないけれど、いい誇りを持っていて背筋が伸びている感じがした。すてき。

きたないこと、つらいこと、理不尽なことを呑み込んでこそひとの深い魅力は生まれるのかなあと思いました。



しかし上映時間が長めとは言え、あの濃い内容を1つの映画にまとめるなんてすごい。
そして1回観ただけで深く理解できちゃう先輩も改めてすごいと思いました。

敬遠していないで観てよかった!

2013年2月20日水曜日

親切

今日もたいへん親切にしてもらったので、役に立てるようがんばろうと思います。



“親切にすること”と“愛を与えること”と“いい顔をすること”は違うなあとしみじみ思った。

親切を受けた分、他のひとに返そうと思ったけれどうまくできず、いい顔しただけになっちゃったのかなあと思ったからだ。

逆に“愛”だと、無条件でふしぎなくらいそのひとのことを思っちゃう、自分の持っているものも分け与えちゃう、という感覚を持っている。
うちの会社にいると、違う部署のひとから愛を受けることもあるので。ええ。


なにが違ったんだろうと思い、“親切”を辞書でひいてみると、「思いやりをもって人のためになにかすること」という内容だった。
ちなみに、“「切」は刃物をじかに当てるように「身近である」「行き届く」という意味がある。つまり身近に寄り添い、行き届くようにすることだそう。へえ。

具体的になにがうまくいかなかったかというと、仕事に対するもやもやについて話してもらったとき、それを解消することができなかったのである。
私自身がもやもやしているんだから、 解消することはちょっと難しかったのだけれど、いっしょに悩んでしまうよりは他にもっとやりようがあったはず。ということで何ができたか振り返ってみた。


やりよう1:自分のもやもやは置いといて、ひたすら相手のもやもや解消に努める
→自分の迷いを隠しても伝わってしまう。真摯でもない。これはだめ。

やりよう2:上長と話す機会をセッティングする
→自分のもやもやが邪魔になって解決できないと分かったなら、早い段階で他のひとの助けを求め、非生産的な時間を短くすることもできた。これはやるべきだった。

やりよう3:飲みに行く
→いっそ飲みに出て、話が尽きるまで/思い切った決断ができるまで酔えばいいじゃない。
これもやるべきだった。


どうして上記ができなかったかというところで最初の親切の話に戻る。
できなかったのは、“寄り添う”ということができておらず、相手との距離があったからだと考えた。

私は話を聞きながら、どうしたら部の体制や動きが改善され、問題が解決するかを考えた。
しかし 、考えるべきはその人が部の状態をどう捉えていて、どうしたらすっきりするかということであり、実際に何が問題なのかということではなかった。それは後でひとりで考えればよいことで。
自分の課題感を横にどけておいて、あくまでそのひとの気持ちになることが足りなかった。

今度からは“寄り添い”を意識しようと思う。





2013年2月17日日曜日

思考停止状態に気付くこと

社長に話を聞いてもらっていて指摘を受けたことその二。
なにか固定的な拠り所を決めようとして、思考停止に陥ることが多いということ。

例えば部門の目標数値が変わったとき。
その目標数値が絶対であり、その数値を上げるということに嵌りすぎる。
目標数値は、あくまでより大きな目標の目安となることであり、それ自体を目指せばいい判断ができるわけではない。
「これは絶対だ。変わらない。」と思うと、そこで思考停止になってしまう。
要所要所で視線を引いて、一番大きな枠組みで今やっていることを冷静に見なければいけない。



社長のように、まっすぐに本質を見極めて掴めるようになりたい。

今の自分との差を考えるだけではなくて、自分がした判断をベースに少しずつ少しずつ上げていく方法を考えることが大事だと思った。

今までは、自分の判断なんてかっこわるくて見たくなくて、目を逸らして上ばっかり見ようとしていた。
でも上は、近付いてみないとどんなに高いのか分からない。
推量して「こんな感じですごいんだろうな!」とか思ってもしゃあないので、自分の足元をしっかり踏み固めて、一歩ずつ上っていこうと思いました。


現状から目を逸らすのは結構得意技だと思えてきた。。
いけてない自分を否定するだけして諦めるんじゃなくて、 認めてあげて辛抱強く上げていかなきゃいけないのだ。きつくても楽しもう。

2013年2月16日土曜日

続 スキル

スキルを身に付けるために、いったん今の会社を離れて修行し、その後戻ったり他の会社に行ったりしようと考えていた。が、まずは今の環境で逃げずにがんばろうと思い直した。

何人か先輩方に相談したところ、「社長に直接相談しちゃいなYO」というアドバイスをいただき、その週のうちに実行。
聡明な社長は私のもやもやの本質を見抜き、アドバイスをくださった。
「スキルを身に付けることは良いと思うし、向いていると思う。
ただ、あなたの課題感は、スキルを身に付けるという選択で解決するものではない。
問題の解決をスキルや知識などの外部装置に求める人は伸びない。
外部装置以外で判断の質を高められるように日々振り返りをし、力を伸ばしたらどうか。」


分かりやすい道に逃げているだけだということはうすうす気付いていていたけれど、自分でしばらく考えても、何人か先輩に相談しても、はっきり認めることができなかった。
社長との話でその逃げをすっきりと認めることができたので、今の環境でちゃんと課題に向き合うことにしましたよ。


しかし、転職を考えたおかげでリマーケティングかなにかに記録され、どのサイトに行っても転職の広告が出てくるようになってしまった。。

2013年2月13日水曜日

いつもの壁

仕事をしていると、何度も同じ壁にぶつかる。
自分の場合は、仕事の範囲を(狭く)線引きすることだ。


今回は、開発の方にお願いしていた機能実装の進捗確認不足という形で壁が見えた。
自分が企画・依頼した機能であるにも関わらず、進捗状況を確認しようとしていなかったのだ。その結果、実装してくださる開発の方、そのチェックをする別の開発の方に負担をかけてしまった。

なぜ確認しなかったかというと、それは自分の仕事ではないと考えていたからだ。
基本的に私が依頼する仕事は上司がスケジュールを調整する。
だからといって私が確認しないでいいかというとそんなことはなく、適宜開発の方とやりとりをして円滑に進めていかなければならないのだが、私が入ることで変に重複してスケジュール確認が発生しては余計に面倒だと思っていた。また、必死で開発していて、開発側のマネージャも見ているのだから、よく状況を分かっていない私が調整に入ろうとしても事態をよくできないだろうと考えた。


と、小賢しく自分なりに状況を考えているつもりだけれど、そういう話ではないことは自分でも分かっている。
要は自分が入っていくことで誰かとのきまずいやりとりが発生することが怖くて、どうしても避けたいのだ。自分がきまりの悪い思いをしたり恥をかいたり、気持ちがざわざわすることがいやだ。だから狭く線を引いて、他人と距離を取ろうとする。
これでは私が憧れる“自分のことより他人のことを一番に考えられる大人”の逆なので、大変かっこわるいのだけれど。。

そもそもなぜそんなに簡単に気持ちがざわざわするかというと、人との関わりに慣れていないこと、自尊心が低いことが原因だと思う。


だったらさっさと人との関わりを増やせばいいのである。
まずは人と関わるときにこの壁をしっかり認識して、一歩踏み出すべき時に気付こうと思う。

2013年2月3日日曜日

スキル

もうすぐ26歳になる。
なんらかの仕事のスキルを身につけるにあたり、そろそろラストチャンスになるような気がしている。


そもそもなんのためにスキルを身に付けたいのか。なぜスキルを身に付けたいのか。
それははっきりしていて、役に立ちたいからだ。
役立っているという実感がないと、私はハッピーになれないと思う。

レベルの高い技術をもって、誰かのやりたいことを手助けする。カタチにする。
そういう役立ち方にすごく憧れる。



一方で、genelaristになるという道もある。
幅広い範囲を見て情報を集め、組み立て、施策を立てる。
今の会社で担当していることに近い。
それはいやな言い方をすると、誰でもできることだ。
誰でもできることなら、うまくできるのは地頭が良く、頭の回転が速い人だ。
そこで役立てるように能力を伸ばそうと考えると、頭を良くしたいということになってしまう。
身に付けるスキルがあるとすると、情報の集め方、分析能力ということになるだろうか。
それでもひたすらにスキルを身に付け、レベルアップができるような気がしない。

だから私は、役に立てるようなスキルを身に付けたい。


スキルといってもどんなスキルか。
いろんな種類があるけど、範囲を広げまくってもしゃあない。
いま見ている範囲は狭いけれど、その中から選べばいいと思う。
いきなり陶芸のスキルを身に付けてどうするのだ。

今自分が見ている範囲は下記の4つくらい。
自分にとって向いているものを考えると、この中だとデザインだと思いたい。
単純にかっこいいから憧れる。
後は消去法だ。
プログラミングは論理的な思考が足りず、向いているとは思えない。クリエイティブは才能が要る。UXはなに?人間工学とか、どんな素地が必要かさえ分からない。
・プログラミング
・デザイン
・UX
・クリエイティブ(コピーライティング、広告)


どうしたら身に付けられるかは、社内のデザイナーさんに相談しながら具体的に知っていこうと思う。
最初の頃は学校に通いつつアルバイト、最低限のスキルが身に付いたらデザイン系の会社で丁稚奉公、という形がよさそう。



今の会社は最高だけど、スキルのない人間にはつらい。
みんなそれぞれ、前職で身に付けたスキルで役に立っている。
新卒でも、開発であれば仕事をしながら専門的な技術を身に付けているように見える。
なぜマーケティング・ユーザアクティベーションでは同じことが言えないんだろうか・・・。隣の芝生は青いっていうだけなのか。


もう少しじっくり考えてみて、客観的な意見も聞いて判断しようと思う。